
咸境道トスウニの過去から現在の日記帳:
今は2000年6月16日:
このごろ南.北の離散家族をさがすニュウスや新聞を通して見ると私の心も一層そわついでいる. 私も統一院に家族相逢申請書を最初に申請したがもし私の故鄕に行く機會があたえられるのかを期待にはずんた瞬間もあったが,
總, 申請者の中から選定された1次の400名の中に包含する事が出來ないと思う理由が70歲以上で北の家族の確認者でそれも抽籤をするし, この對象者も超過するから抽籤すると言う說明があった.
次の機會を期待しながら, いつか故鄕を行って見る日があるだろうと思うだけである.

1. 私の故鄕は, 咸鏡南道:
私の過去の若い時節を考えて見ると, ぼんやりと思い出される.
私の故鄕, 私が住んていた家は, お祖父さまから代代の遺産で, 自然の中で純粹に成長したその時が慕われる.
後の野山と果樹園がある我が土地の周圍にまわされた "ㄷ"
字形の起臥家は,
平和に見えた我が家を記憶すると慕われる. 私は4兄弟の中で未っ子に生まれて,
かなり成長した年齡にも父母やおにいさんといっしょうに寢た事が思い出させる.
私は今もこの成長期を思い出すとその時が慕われる. したがって,
もう一つの記憶が思い出されのは, 若い時の試驗體制が全部の科目を各各に多樣な問題を出題した後,
表で抽籤してから問題を答える試驗制で, 私は合格する爲に我が家の後の野山にある木の下でおぼえを繰り返して試驗を見た時が思い出される.
試驗は終ったが緊張からの解けた所に肉類を食た後, 食べあたって私は病にかかった.
私はお父さんといっしょうに親戚と言うかの所が交通上の距離が少しある所に,
有名な醫師を訪ねる事に房を借りて治療をする爲に止まっていた.
この時が約1949年頃であろうか. ここに止まっている間に二番目のおにいさんが私を會いに來たのが最後であった.
お父さんは私に我が家にいって來るとおっしゃいながら行き, この時に戰爭の當時の夜に寢でいる間に,
おとならのお話しによると國軍が後退するから避難を行かねばならないと言う事から私は,
ねとぼけて起きて何もしらず, おとならをついて汽車に乘って南の方に向って走る汽車は,
我が家の前を通りながら走っていった. したがって, 汽車は南に向って走る間に我が家の前を通る汽車の屋根の上に座っていた私は, 我が家を見た時,
お父さんが家に入る門をつかんで內部を見ながら立っている後ろ姿を目擊したが汽車が走る爲にとうする事も出來なかった. これが私の家族と私が住んた家と離れる最後になってから今日までが50年(2000年)と言う歲月が流れるとは, 誰もが考えられなかったでしょうが!
とこかに避難してから, すぐ歸ると思った若い少女は, おとならといっしょうに南を向かって行ったそうた.
とこかて 汽車から降りて晝間には, 山の中にある(全部の人が避難を行った,
からっぽの家)からっぽの家に止まりながら夜になると, 叉, とこかわらない所を步いている道は,
雪が凍りついた月夜に私は, 飢えたままの狀態で生きなければならないと言う事しかわからず,
多くの人びとをついて步いた. 雪が多い山道に凍りついた道の上を步いている人びとは,
運動場で觀覽が終わって出で來る人びとのように前.後の人びとが多くて私が步いている左.右が步く人びとの人波であった. どの主婦が子ともをおんぶして步きながら,
どのくらい飢えたか步く氣力がなくて雪の上に子ともをおいたまま主婦が行くと,
その後を步いている男子がその雪の上にいる子ともを抱いて步きながら子ともの母に上げるのを見た.
この子ともの母は子ともをおんぶして步いたが體力がたりなくて,
叉, この子ともを雪の上におくのを見たがこの時には, だれもが飢えた狀態で自信の體も氣力がない狀況であった.
私は今もたまにその時を聯想するとその時にその子ともは, どうなったんだろうと思い出させる時がある.
私はその時, 若い爲にとこに行くかも知らず步いていたが月夜にほかの人びとと步く途中,
海から艦砲射擊をすると火のかたまりが我らの頭の上を通って山に落ちる狀況が非一非再で夜になると反復したがおとならは, 生きなければならないと言いながら月夜になると,
とこかに步いて行くと私もその後をついて步きながら, 叉, 朝になると前に止った人びとのからっぽの家で食べ殘りの豚肉を食べて食事の代わりに終えて, 叉, 次の日になると,
とこかに出發した. このような避難での生活は, 一日3食の食事をすると言う事を忘れた生活が繼續したが最後の目的は生きる爲の以外には, ないのでお腹がすいたと思う人は誰もいなかったようた. このようにして到着した所が咸興市興南の埠頭であった.
この埠頭には避難に行く人波の荷物がいっぱいて私がその荷物の間いたに挾まれたが飢えて氣力がなく危うくその時, 私はなくなったかも知らない私が今このように字を編輯している. 我らは何日間をこの埠頭の床に止っていたがエルエスチ(LST:
海軍輸送軍艦であると言う事を2001年6月25日字に過去の戰爭當時を放映する過程から知る事になった)と言う大型の船で避難民を避難させると言った.
そのエルエスチ大型船の屋上は運動場のようて, 我らは船の中の地下で家族單位に荷物を周圍の回りに置いて境界線を作りその中が我が家になった. 何日を過ぎた後, 船の屋上に上がるとすれば,
長いはしごで屋上に上がって見た. したがって, 1950年12月頃, 馬山に到着したが馬山側から反對され一日の夜を住んた後, 船は巨濟島に倒着したがこの事實は, 1999年度のTVを通して戰爭に關する過去を放映する過程から知る事になった.
私はおとならが全部の人びとが降りると言うから船の屋上に上がって出で見たら巨濟島の長承浦の埠頭であり,
叉, 見える高い山の土地には, 麥わらが草綠色てすごくきれいな色を出した.
救護米であるアルラング米に麥わら米を混ぜたご飯とつけものは,
豆の葉をひしこいわし漬けた鹽辛に入れたのがこの地域の主食のつけものであった.
この巨濟島が近來においては造船所や大型の企業が進出しながら巨大に發展したがその時には,
4方40里とか言われて山と海だけが見える所と記憶される.
每日の朝になると原住民と失鄕民が朝に洗眼をする時には, 小川にいって齒藥の代わりに小川の砂を利用して指で齒牙をみがいた思い出が今も過去の記憶がする. それから何年を生活しただろうか! おとならが釜山の影島に移事をした.
ある日, 私は影島のザカルチ市場に何かを買いにいった. 歸り道にどの商會看板がある中に座っている男子を見ながら私はそのまま影島橋を步く間, 思い出して見るとその商會の中に座っている男子は,
とこて見たような感じがして勇氣を出してその商會の前を何回も行ったり來たり反復しながらその男子の顔を確認したがお互いに避難の生活による影響なのか, わかりにくいし, もし私がそのまま家に歸ると後會になる感じがして勇氣を出して暗い內部に座っているその男子に話しをかけた. あの一言聞いて見ますと言ってもその男子は私をわからなかった. 當たり前たと思うのは若い少女が避難の生活からの當時に私が19歲程度の娘たったから, わかるはずないだろう...! したがって,
私から聞いたのがもしどの先生でないでしょうかと聞いたら, そうであると言いながら私のおにいさんがとこに住んでいらっしゃるとその住所を敎えて下さった.
その方は私の小學校の擔任先生でもあり甲富家の長男である.
私は影島橋を通って家に歸り, おとならに話しをして私はおにいさんの所に行った.
私はおにいさんが努めている職場のどの有志を會う事になり, その方が運營する孤兒院に遊びに行った所で,
戰爭孤兒を見ると何か出傳って上げたい氣持がして私は頭の髮を切って上げた.
ある日その方は, おにいさんと私がいっしょうにする機會がありその方は私に提示をした. 字を書いて見るようにとおっしゃった. 私は漢文,
ハンクル, 數値, 等を 思い出させるのを書いた. その結果, 認定された私は5級公務員に採用されて5年間を勤務した經歷がある.
このように漢文, 等を書く事が出來たのが今に考えて見ると過去に我が家で若い時には,
今日のように多樣な遊びの文化がないので自然を利用した遊びであるがそれも兄弟が全部, 學校に登校すると就學前の私には, 遊びの相手がなかった.
したがって, 私の遊びはおにいさんやおねえさんが漢文, 叉は,
筆の勉强したそのまま置いて登校したその自體が私の遊びの相手になった.
例を上げると, 小さくて低い木の板の中に砂を入れてからその上に漢文を指で書いた後, 手で消してから反復するのが私の遊びであったり,
叉は, A4用紙の大きさの靑色の紙の上に, 筆に水をつけて字を書いた後,
次のペ-ジに書く間に前のペ-ジは自然にかわかす. 今に記憶すると國産ではないそうたが, これほど紙の浪費がない勉强の方法でないかと思われる.
叉は, 家庭の生活環境とも言えるかと思い出させるのは, お祖父さまが科擧に及第して許參奉と言うタイトル(族譜にある)を受けたと言う事は,
今日において, おにいさんから聞いたがそのようてあるから何個のダンスの中に筆で書いた冊がいっぱいにあったが今日のようなら, これらが骨董品にもなれそうたがその時には,
私がたまに泣いていると, おかあさんが飴商が來ると紙が多くない時代たから筆で書いたこの冊を上げて飴をもらって私にくれた覺えもあり, 叉は,
私はひまつぶしに, この筆の冊を何個(お祖母さま, おかあさん, 等が結婚して來る時に持參したダンスで,
いつも3代程度の以上がいっしょうに暮した)のダンスの中にある筆の冊をひろがりながら遊んたのが自然に情緖的にも勉强が出來る環境を助成して來れたのではないかと思われる(就學前に千字文を暗記て全部を讀んたが今は二列しか暗記できないから, このごろ千字冊を何日前に購入して來たが今でも讀んていない). 私はたまに思い出すと今も故鄕の家族は,
この冊をそのまま保管してあろうか! とする理由が今も家族は,
故鄕家のその場所に住んているのを知る事が出來た. 北では純粹な若い少女が勉强するだけしか, わからなかった私が戰爭の爆擊の中で,
おとならをついてとこに行くのかも知らず避難しなければならない避難の生活をする間,
勉强すると言う事が頭にいつも殘っていた. したがって, 私はこのような餘念の中でその時節, 金東勳ハングルのタイプ, YMCAの英語講座, 高等學校の美容科に,
洋裁學院に, 等に習う事なら最先をした. このようにして60年代の中半に私は, ファッション界で敎えていたが韓.日交流のファッション.ショウ(國際服裝學院主催と日本文化服裝學院主催交流)で日本文化服裝學院から韓國に來た時,
私の留學の履歷書(韓國で敎えると言う條件で, 機會があったら留學を推薦する約束があった)が傳える動機になり書類申請をしたが前朴正熙大統領の時節の年初の5個年經濟開發に對する外貨獲得を强調,
女子は外貨浪費(理由: 前者らが留學して見た結果, 結實がなかったと言う事から)になると言う理由から私にもその影響が與えられて私は晝間には, 敎える爲に神經を使う餘裕もなかったが夜になると眠れなく書類を持って夜の町を步きながら淚を出していたが, ある日, 私が考えて見るとくやしいと思った. 日本からの奬學生に推薦されたこれは, 外貨獲得でないのかと言う考えから一人で電話番號簿から過感に外務部の高位層の自宅を訪ねていった. もし今たったら考えられない行動をその時には, あんまりにも,
わからない純眞な一人の考えから子息のある人ならこの眞實を解って下さると漠然な考えてその婦人を訪ねていった. 初面に人を會うのにそのまま行くのが,
すまないと思い東大門の廣場市場で韓服の布地を購入してこの婦人に上げると婦人は膳物をもらうと男便に影響があるから出來ないと言いながら私が持って歸るのが自分を手傳うのであると言うので私はそれを持って歸って來た.
その婦人の自宅は, 今, 考えて見ると江北の東大門區の所在に, あんまり大きくない韓屋で應接室のある家が記憶になる.
したがって, 私はその婦人に自初至終を話すと當然にその婦人が何の答辯をする事が出來ないでしょうと思うが私の眞實な內容を聞いたその婦人は, 決定權がないが聞いた內容に同感されたのか聞いでいる婦人が私をそのまま歸させるのがすまない爲なのか, 私からの說明の內容が事實ならば,
我らがいっしょうに考えて見ましょうと私の心を安心させる氣持ちて歸らせた.
私は結論のない答辯が當然であると思いながらも肩に力がなく家に歸って來た.
この事が私の頭から忘れていた頃, 期待もしていないある日, 外務部の職員からお電話が來たのである.
私は興奮しながら內容を聞いた結果, 日本に照會して見た結果によると奬學生に招請され留學をして勉强させて上げると確認した日本の外務省から連絡が來たが,
お名前の終の字が異なる爲に, もう一度に照會するまで待つようにとおしゃった.
照會した結果, お名前を確認して留學する事になり私は何もなしに膳物だけ何個を持って日本のハネタ空港に倒着, 日本文化服裝學院に倒着して, まず理事長,
學院長, 留學生擔任先生とお會いする事になった. 奬學生の條件で私には, 全部の事が許可された立場であるから對話をしたが一人で日本語の獨學をしたので日語の實力は, すぐ能熟ではなかったが相手の方が話すと聞いた內容は, 全部の理解が出來る爲に單語は多く暗記してある狀態でいるから初めに私の日本語は, 單語の間に入る用語, 例を上げれば,..て,
..して, 等が初めは, すぐ口がら出なくて前に座っている高い方からお話をすると私はその意味を全部, 解っていたから白紙に答辯を書く方法に對話をした結果,
日本語について良く理解しているから勉强するには, 問題ないと判斷されて直接その場でノ-トから鉛筆, 敎材のセット, 等の全部を提供させていただいて, 留學生寄宿舍,
食事費, 全部を無料提供の條件で勉强する事が出來る幸運兒になった. したかって,
裁斷科と言う勉强する科まで指定された理由は, 說明すれば日本の側が敎育させて故國に歸えって敎える時に基礎から文化服裝式をわからねばならないと私に說明をしてくれた.
私の心からは何んでも與える物なら最先をするつもりて勉强をする事が出來たのが嬉しくて.....このような幸運兒がとこにあろうかと疲困もわすれたようた.
叉, 私は1年くらい過ぎたのか, YPO(日本の全體による國內の若い層の甲富と言うのか,
理事長もその中に包含された一人である)と言う奬學金まで受けられた.
ファッション裁斷科の1年を卒業した私は,
ファッション.デザイン科を志望したが學校當局が試驗に合格したら繼續に奬學生で勉强するように提供し, 不合格したら故國に歸る條件であった.
私の頭だけに勝負をかけるしか何があろうかと思い出來るだけ最先をする以外には何もなかった.
デザイン科は, 定員80名(フランスで有名なファッション.デザイナに活動しでいるケンゾ氏もデザイン科の出身であり,
私より何年前の卒業生)に, 應試者は全國から90点以上の優秀な者らが推薦書を持參されて入試を受けたと言う.
その時の記憶では日本の全國的から多くの人員が集まって一日中に試驗を受けた結果,
私の受驗番號は100番で忘れられない. 私はもしかも不合格したら故國に歸るつもりて家電製品社に電氣のかま(その時, 韓國には電氣のかまがあんまりない時)を一つ購入するつもりて,
住んでいる近い電氣屋さんに行ったが, National(松下)電氣の代理店の職員の話しによると日本での100V.が韓國の110V.に使用したら壽命が短縮され, メイカのイメイジが損傷する爲に銀座(ぎんざ)にある外國用の代理店に行って購入するように敎えてくれた住所に行って購入したがこの電氣のかまは, 今も新しいままで移徙をする時になると, これをさわって見ながらその時を思い出す. 日本人の製品による企業精神におとろいた. このようにしながら試驗結果だけを待っていたある日,
合格通知書を受けた私は, 嬉しくて飛びこみながら喜んた. 外國人は,
このファッション.デザイン科に初めの合格であったと言う事を學校の關係者から後に聞いた.
したがって, 私は繼續に全部の費用, すなわち,
登錄金から寄宿舍 及び 食費, 等の免除を受けながら勉强を繼續する事が出來る幸運をえられた.
寄宿舍に住んでいる間, 全部の留學生らが實習の宿題が每日あるから寄宿舍の夕方から夜の11時(11:00 PMに寄宿舍の電氣だけが自動に消される)までの間に留學生らが實習の宿題を部分的に解らない物を敎えてもらう爲に宿題を入れた箱を私の部屋の前にならべて置いた. 私も私の宿題をしながらこれらの宿題を手傳って上げたがこのように小さな奉仕が各國の全體の留學生會長の選出がある時に各國の代表が一人ずつ選出されて投票した結果, ほかの國の多くの留學生らが私に票を入れて私は總留學生會長になった. 私の考えであるが, 結局, 小さな奉仕をした結果たと思い,
ほかの人に奉仕すると言う事は, 利益よりも手傳うと言うその自體に滿足されて幸福な生活であった.
私はこのようにして勉强をして見ると學位を思い出されたがこれは人間の本能であるかもしらない. もう一と學部を志望したが多くの敎授らのお話によると私が持っている知識と技術でお金をもうける機會が多いのにとおっしゃった.
私のお答えは, お金よりも名譽を願うと言いながら大學に應試する事に決心して試驗を見た結果, 合格をして大學の近くに房をかりて寄宿舍を出でから私は學問に沒頭する決心をした. その間に裁斷科を通してデザイン科では,
ファッション.デザイン, 立體裁斷, ファッション.イラストレイション, ピンワ-ク, 等を勉强しながら以外にも帽子科, 編物科 金工科, 等の修了證も受けたし, 技術賞(衣裳),
各國對抗デザイン賞(衣裳), 洋裁敎員資格證(試驗を應試した結果),
等を受けられ, 叉, 1969年頃に日本で留學中の間に運轉免許を取得したがこれはやさしくないその理由は, 法令, 構造, 實習が各10段階まであって,
どの一つものぞいでは先に進む事が出來なく, 平行でこの各10段階の數値の段階が同じく進まねばならないので,
この三つの中で一つが出來なかったらその一つが出來るまでしなけばならなかった.
私の留學生活での經濟的な面と無意味な時間浪費は, 結局, 容納が出來ない爲に每日の朝,
皆さんが寢でいる間に4時になると起きて舍監先生を起こして運轉演習場を行く距離が地下鐵で,
約2時間ぐらいをかけて放學の間に運轉演習の全部を終えて, 9月の2學期が始まってから週末を利用して政府が運營する公安委員會に行って最終の實技と筆記試驗を見で合格したが私の專攻で勉强するよりも, もっと難しいかったと思ったのがこの社會で運轉免許だけ取得するならばこれ以上に難しい事は, ないだろうと思い, 結局, 運轉免許を取得した後,
日本に住んでいる韓國人らは, 私にどのようにして運轉免許を取得したのかと,
うそでないかと運轉免許證を見せるようにと, おっしゃる人もいるぐらいたった.
どのぐらい運轉免許を取得するのがやさしくないと言う事がわかれる.
日本での學部を卒業すると, 叉, 大學院に進學したいと言う考えから....
叉, 大學院に應試した結果, 合格して碩士學位を終えたら, 叉, 博士學位が懇切して,
まず, お茶の水女子大學で服飾美學硏究を2年間しながら私が考えたのは,
日本でこのぐらい(12年間), 國民性による纖細なあらゆる物を攄得したならば大きい意味があると思ってこのような点を兼備したと私の自信が思うなら,
なにかもっとひろい所てひろげて見たいと思って博士學位課程を米國に決定してToefl(外國人に英語の能力テスト)とGRE(大學院の應試者の全員に必須的な試驗)を準備しながら米國の全國に私の專攻をさがしてから150餘個の大學にお手紙を送った結果, 110餘個の大學からお手紙が來た.
大學から家に歸ると每日のお手紙の答狀を書くのに就業したような感じまでしたようにいそがしかった.
このような結果で, 三つの大學に合格した通知書(I-20
Form)が來た. この中から檢討して私の專攻で一番, 良いと言われる大學を選定して行った.
米國の大學で1年後から敎える機會が與えられてOut of
State(留學生の資格)がIn State(國內の學生らと同じ資格)になり米國學生と同じ登錄金に代わり無料の勉强みたいにする事が出來たし,
叉は, 月給の稅金を拂う爲にSocial Cecurity(住民登錄證と同じような物)も發給され,
銀行のMaster Cardも許可された. 身分の證明も上昇されて自負心がいっそう高まれた.
したがって, 博士課程をしている間に米國全體の大學を對象とした博士課程部門で家政大學賞(Omicron
Nu)を受けた. 米國で博士學位を終えるまで4年,
叉, 追加で敎える爲と總6年間硏究している間に韓國の敎育部(日本大使館の敎育部の關係に努めた方から)の關係者からお手紙が來た.
內容によると外國だけに手傳わないて韓國の發展の爲に歸國して敎育してほしいと言う內容であった. 私は大學から一時的な許可をいただいて一時歸國して紹介された7つの大學の總學長と面接した結果, 4つの大學で敎える事に決定され米國に行って學位授與式を終えてから全體の米國敎授らを對象とした文化探訪次でヨ-ロッパの12個國を回ってから1984年8月に歸國したがその間韓國を離れて留學したのが17年間を外國での生活から故國に完全な歸國してその時に三つの大學を敎えながらある日, 新聞に敎授招聘の公債があり書類を提出して面接試驗を受けた結果 , 敎授に採用されて1985年3月1日から敎授職に努めて2000年3月1日からは繼續して現在, 大學院だけを敎えでいる. 私は韓國よりも外國で多樣な賞狀をもらったのが多いが,
2000年2月29日に敎育部長官から敎育功勞賞を受けて, その間, 敎育に努めたのが良かったなと思われる. 私は大學で敎える間, 中國に國際學術セミナ-があって參加してから終った後, 歸りに中國の道門(地域名)に行く事になった.
頭滿江の堤防の上に立って江の反對の方を見るとそこが咸鏡北道てあった.
私の故鄕は咸鏡南道であるが, むしろ私が住んでいた故鄕が見えそうたった.
私はこの時の氣持を言葉では表現できない. なぜ人間は鳥のように羽がないのか!
もしあれば, 空中を飛んて私が住んた故鄕の家を見られるのにと.....
韓國で生活している間, ある日, 新聞から見た.
統一院から許可を受けると非公式に書信の接觸が可能であると言う事を....
その場て私は統一院を訪ねて必要な書類書式に接受させた後, 許可の通知書もらった.
さっそく中國に住んでいる朝鮮族の中に私の故鄕のどなりに住んた人が調べて見でから私に消息が來た.
私の故鄕, 私が住んでいた家の住所に, いまたにも我が家族は現在もそのまま住んでいると言う消息と私についでは戰爭中に死亡したと我が家族から聞いたと言う..., このように原稿を書いている私を戰爭で死んたと言う我が家族との別れが,
50年を過ぎでも合えない現實を願望する. 叉は, 中國を通して私が住んでいた我が家からお手紙が來た(統一院に報告してある).
したがって, 南.北の間でお互いにお手紙の往來が自由に出來ない現實たからこれ以上に相逢する前までお互いに消息のない狀態である. 今日は2000年8月15日, 南.北の失鄕民を各各100名ずつ抽籤されて相逢する日である.
このごろ離散家族のさがしが活潑して私も家族と相逢する期待をしながら現在が2000年8月であるが, 今, 私の心情は50年前(1950年から)若い時,
私が住んでいた私の家に行って見たい心情を誰が解ってくれるでしょうか...
!
私はこのごろ書藝に趣味があり次のような內容を畵仙紙に筆で書いて見た.
天
涯 各 南 北 見 月 幾 想 思: (空の終わりまで南.北にお互いに別れて,
月を見ながら何回も慕われたったのか
! 一
去 無 消 息 死 生 長 別 離: 一度, 行ったら消息もないし,
死ぬか生きるか 長い離別なのか.....!)
むしろ私と共に話すような言葉と思い出され書藝で書いて見た.
書藝と四君字は, して見ると情緖的にも良いと思って時間があるかぎり繼續する豫定である.

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